『「吾輩は猫である」殺人事件』

 これを書くために自分は小説家になったのではないかと思ったのがこの小説である。まだプロデビューする前、処女作を書いていた頃から、構想はあった。なにしろ僕は、漱石の「猫」が好きで好きで仕方がなく、自分が作家になった一番の原因は、やはり漱石の「吾輩は猫である」を読んだせいだと真剣に思う。

 漱石の「猫」のパロデイーはたくさんある。「吾輩は犬である」とか「ぼくは猫よ」とかいったものから、「吾輩はインキンである」なんてものもある。有名なのは内田百間の「贋作」であるが、僕はこれに不満があった。まず、贋作とうたっていながら、文体模写をしていない点、それから短い点である。自分がパロディーを書くなら、文体模写をし、本編よりも絶対に長く書こうと決意していた。

 労力という観点からすると、これがいままでのところ、僕が書いた小説のなかで一番である。むろんそんなことは読者には関係ありませんが。作家がどんなに苦労しようが、読者にとっては面白いか面白くないかだけが問題だ。

 それにしても、僕はどうやら漱石的な孤独というものに耐えられないらしい。漱石の「猫」はとても孤独である。最初の頃こそ、近所の猫との交流があるが、淡い恋心を抱いた三毛子はあっさり死んでしまうし、途中から仲間の猫は消えてなくなってしまう。そのぶん人間に知己が出来たから退屈しないなどと「猫」は強がっているけれど、人間の方は「猫」が人語を解するとは思っていないのだから、コミュニケーションは成立していない。猫はまったく孤独である。そして孤独は癒されぬまま、あっさり水瓶に落ちて死ぬ。どうも可哀想で仕方がない。

 僕の小説は、死んだと思っていた猫が実は生きていたというところからはじまるわけだが、彼は上海にあって、仲間に恵まれる。ホームズ、虎君、伯爵、将軍、その他の異国の猫たちである。さらに三毛子までが生きていて、再会を果たす、どころか「吾輩」は恋を成就するのである。子供を作ったりして。「吾輩」は幸せになる。実をいうと、近作の「坊ちゃん忍者幕末見聞録」でも同様のことが起こった。漱石の坊ちゃんは、よく読んでみると、実に貧寒として孤独な存在である。ところが、坊ちゃん忍者は、友達に恵まれ、師匠に恵まれ、家族にも愛される。彼もまた、本人にその自覚はないが、幸せである。

 こう考えてくると、僕は、漱石の主人公たちを「孤独」から救い出すことに密かな関心があるらしい。となれば、「こころ」とか「道草」とか「明暗」はどうかと、つい考えてしまうわけで、しかしだ、たとえば、「こころ」の「先生」が自殺をよしてハッピーになる物語、って、どんな小説なんでしょう。

 殺人事件と表題にうたってあるから、ミステリーなのは一目瞭然(といっていいんだろうか)だが、実はこれはSFでもある。なにせタイムマシンが出てくるのだから、そいういっても叱られないだろう。といっても、自転車を漕いでエネルギーが供給されるタイムマシンなんですが。これは水島寒月が発明したのでした。

 さまざまな企みを秘めつつ、雑多なものが雑多に組み込まれながら、娯楽性も失っていないという意味で、よく出来た小説だと思います。って、自分でいえるくらいじゃないと、いまどき作家はやってられないので、いいました。

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