『バナールな現象』

 いままでのところ(2001年10月現在)、僕の代表作をひとつ挙げろといわれたら、これになるかもしれない。少なくとも、はっきりした形で「時代」と切り結んだ作品はこれだろう。
その「時代」とは、湾岸戦争の時代である。あれからほぼ10年。ニューヨーク貿易センタービルへの自爆テロに引き続く状況のなかで、この作品がなおアクチュアリティーを失っていないかどうか、作者としてはどうしても心配になる。そこで、僕は、久しぶりに読んでみた。で、驚きましたね。かつ呆れました。なんと、10年前よりずっと面白くなっている! いやはや、恐ろしいまでの作品の強度。って、自分でいってりゃ世話はないが、誰もいってくれないので、とりあえず自分がいわないと、ということもあるのでした。

 読んでいて、少しびっくりしたのは、作品中に、ジャズのスタンダード、You Do` nt Know What Love Is の引用があったこと。この曲は、近頃僕が参加しているバンドのレパートリーに加えている。すっかり忘れていたのでした。

 ところで表題のバナールとは何か。これは凡庸な、とか陳腐な、という意味である。その昔、僕ははじめて小説を書いて、集英社の「すばる」の新人賞に応募した。すると思いがけなく最終選考に残って、が、そこで落選した。当時の「すばる」は選考会の模様を座談会の形で掲載していて、そのなかで、僕の作品について、ひとりの選考委員が「この人はバナールなんだ」と発言していた。バナール? なんだろう? 聞いたこともない言葉だと思い、辞書を引いたら「凡庸な、陳腐な」と出ていた。なるほど、と僕はうなずきうなずき、同時にこの言葉が深く心に残ったのでした。

 もちろん凡庸だ、陳腐だといわれて、嬉しいわけがない。けれども、いま考えれば、あそこでその言葉が与えられたのは、一種の運命だったように思う。早い話が、僕はバナールで行こうと決意したのだった。徹底してバナールを貫こうと考えたのだった。バナール主義はそのとき誕生した。その成果のひとつが『バナールな現象』である。この主義の内容については、また別の機会に解説したい。

 主人公の名前の木苺。これはまた変わった名前であるが、ここで創作秘話(っていうのがよくありますが、大抵はフィクションなので、あまり信用はできません。ただ作家が自分の作品をどう読まれたいと思っているかの参考にはなります。もっとも、そんなこと知ったって仕方がありませんが)を披露すれば、どんな形で書いて行こうか、もやもやしながら、夜、西武多摩川線の新小金井の駅近くを歩いていたとき、不意に、キイチゴという名前が浮かんで、素早くポケットから手帳を取り出して、メモをしたときには、全体の構想が出来上がっていたのだった。しかし多摩川線の新小金井とは。なんて詰まらない場所なんだろう!その辺りに住んでいるんだから仕方がないが、もう少し洒落た場所で思いつきたかったものです。パリのカフェーとか。もっともそのつまらなさこそ、バナールといえなくもない。

 最後に、余計なことをつけ加えると、この作品は大江健三郎の『個人的な体験』を下敷きにしています。そんなこと分かってるよという人も多いと思いますが、念のため申し上げました。

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