2006/09/04
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2006.9.04 更新 
  もうどれだけ書いていないかも分からない程長い時がたった気がする。 奥泉家の夏は終わったようだ。まだ今日など蒸し暑く、坊の夏休みも終わっていないが、奥泉家の風としては、夏は既に終わっている。
 今年も、例年と同じく、同じメンバーで、同じ紀州の海で、同じように遊んで、一家は帰って来た。今年の大きなニュースと言えば、細君がホテルの前の入り江のような湾で、実にちゃちな貸し釣り竿で大きなカワハギを釣ったことだろう。  ちょうど満潮になった昼頃、そのカワハギは現れた。水が澄んでいるため、上からでもその姿はよく見え、しかも水の中にいるため魚影は更に大きく見えた、なんでもカワハギは、食い付いた瞬間が分かりづらいらしく、釣るのは難しいとされている魚らしい。餌付けをすること20数回、糸を投げ入れるたびに大きな影は寄ってきては餌を食べていった。小さな生臭い小えびを針につけ続けるのはもちろん主人である。その姿は健気で、34度にも及ぶ炎天下、実にご苦労なことだと思った。
 一度水面から持ち上がり、初めてカワハギと判明したが、なにせちゃちい釣り竿である。重さに耐え兼ねて魚は水の中。それでも餌をつけて糸を垂れれば、何度でも寄ってくるあたり、よほど魚のやつ、甘くみているのだろう。まわりでともに糸を垂れていた面々から、持ち上げずに、水面を横に引いて、岩に上げろとのアドバイスを受け、二度目にかかった時はさあ大変である。主人は脱兎のごとく岩を駆け降り、カワハギの口から針を取ると'ハトヤ'のCMよろしく素手で魚をつかみ、網が差し出されるまで必死の形相である。あそこで万一逃してしまったら、後々大変なことになるだろうとは吾輩にも容易に想像できた。めでたく一尺ほどあるカワハギは、人々の賞賛の中クーラーボックスに納められ、後に浜辺で調理された。

 そうして紀州の海で丸三日遊び、帰京後疲れから坊は熱を出し、例年通り寝込んだ。だが数日後、一家は山形の田舎に今年は車で出掛けた。運転するのは細君である。主人は「今年こそ免許をとるぞ」と言いつつ一向にとらない。そのうちに細君がゴールド免許保持者になった。
 車で移動するのはずっと寝ていればいいので、吾輩にとってはいたって都合がいいが、夏の暑さには閉口する。しかも盆帰りの車で高速は渋滞。何故こうも皆同じ時期に同じことをするのか。猫には理解できない。
 福島に着いたあたりで坊が気分が悪いと言ってしばらくレストランの椅子で横になっていた。ドライブン・インは旬の桃の直売であたり一帯が甘い桃の香りで包まれていたが、フルーツ王子なる坊は珍しく見向きもしない。よっぽど具合が悪いらしい。大体紀州の疲れが取れぬ間の出発だからいたしかたないのだ。細君は暑さと眠気を吹きとばすべく東京のドラッグ・ストアで買いこんだあやしい液体をしきりと飲んでは、アンメルツなる、目にしみるものを体中に塗っていた。薄目を開けて様子をうかがっていた吾輩に気付くと、にやっと笑い、吾輩の鼻に塗ろうとしたので慌てて坊の掛布のなかにもぐりこんだ。そうこうしているうちに夕方、ようやく主人の田舎である庄内の実家に着いた。
2005.4.13 更新 
 恒例の花見の宴も終わり奥泉家に静かな春が巡ってきた。これで春眠を心おきなくむさぼれるかと思いきや、花見の際、ホームページを一向に更新しないことを友人諸氏から責められた主人は、「どうだね猫クン。君は慧眼のようだし、何より僕より自由だ。従って時間もあるだろう。僕の代わりに日記を書いてくれないか」ときたもんだ。元来猫は日記を書かない。しかも人の日記となれば尚更である。とはいうものの、最近主人のまわりで起こっている面白いことをそのまま季節と共に流れるがままにするにはあまりに惜しい。そこで怠け者の主人に代わって吾輩が人肌ならぬ猫肌を脱ぐことになった。だが書き手は動物界でも有名なボヘミアン、猫である。どうか諸氏もそう思って期待を過度に持たずおつき合い頂きたい。 まずは予告だけしておこう。主人は国際交流基金なる組織からお金をもらい、この春初めてのアジア行きを果たし、未だにお腹がゆるい日々を送っている。別段危ない病気ではないが、一週間のタイ・インドネシアの講演旅行の帰国後、連日続く花見の宴によせばいいのに暴飲暴食をしたたたりである。その合間に初めてのNHK BS 出演の収録があったことも加えておこう。 インドネシアではキラキラ(良い加減に)、という言葉をよく耳にした。いいひびきである。吾輩の座右の銘としよう。 ではいずれまた。失礼してここらで眠気に身を委ねるとしよう。
2005.4.16 更新 
 朝起きてびっくりした。道路は一面真っ白、雪が積もっているかに見えた。それではもう一寝入りするかと思ったが、桜が咲いたのに雪でもあるまいと今一 度路面を凝視すれば、雪が積もったように見えたのは桜の花びらであった。「昔は、’まあきれい!桜のじゅうたんだわ!’なんて喜んだものだけど掃除が大 変だわ」とは小学生の息子をおくりだす細君の弁である。主人は勿論まだ寝ている。「旅行の疲れが出た」とか「行く前に無理をしたからその疲れが出たな」 とか、大体季節が変わる度にその前の季節の疲れが出るらしく、温泉に行けば行ったで「出たな〜。温泉の疲れが出たよ。」と疲れていないときがないようで ある。 そんな疲れが出やすい体質の主人にとって、今回のタイ・インドネシア旅行はかなり強行軍だったらしく、そもそもよく行く気になったものだと感心した。 だがこれは主人の意志というよりは細君の強い意志によって敢行されたものらしい。なにせ細君はインド育ち、暑いところが大好きらしい。吾輩はごめんである。毛皮を脱ぎたくても脱ぐわけにはいかず、腹を大理石の床に押しつけて寝ていると、「可哀相に、毛皮がいらないのだったら三味線屋さんを呼んであげま しょうか」などと怖いことを言われる。だが奥泉家では物事は民主主義的多数決では決まらない。専制君主制が未だに続いているのである。 閑話休題。タイに向けて一家が成田を出発したのは三月二十六日、まだ桜の蕾も固い頃であった。主人は根っからの飛行機嫌い、加えて前日にむりやり長編を書き上げた為に体調は最悪、加えて最近続出しているJALのトラブルから益々募るストレスを抑えようと空港のロビーで朝からビールを飲んだが効果はなく、一度激しく揺れた際には息子の手を握りしめ顔面蒼白であったそうだ。その点初めての海外旅行で乗り物 酔いする息子の方が七時間の飛行を勇敢に耐えたようだ。 バンコックのドンムアン国際空港に着いた時には、いつもの快活な雄弁ぶりはどこへやら、ホテルへの車中でも一言もしゃべらなかった。迎えに来てくれた国際交流基金のF氏はさぞかし気難しい作家だと思ったことだろう。しかし、主人に同情する訳ではないが、やたら暑く、ぬるい雨が降っていたのには参った。一番暑くなる時期を前にして、連日三十五度はあるらしい。お風呂だって嫌な吾輩である。外を出歩くのはまっぴらごめんである。ホテルは奥泉家が二度と泊まれない程の一流ホテルらしいから、ずっと中で寝てるとしよう。出かける前に細君に「タイの猫はとても気品があって美猫が多いわよ」と言われつい行く気になってしまったが、暑さについては一言も言われなかった。どうやら騙された気分である。 結局その日は主人の体調が悪いので打ち合わせを兼ねた夕食会を断り、主人と吾輩はホテルの部屋で並んで寝ていた。細君と令息は広いスイートルームとやらに感動し、令息は二つあるトイレでかわるがわる用を足しては、部屋に供え物としておいてあった南国の果物を次から次へと食していた。細君は息子用にと持ってきたカップうどんを主人に食べさせると、着替えて食事をする為に出ていった。無論令息を連れて、である。
2005.4.17 更新 
 春である。さっきまでは蕾だった庭のチューリップが吾輩が四、五遍欠伸をしているあいだに一つ二つと咲いた。春爛漫とはこういうことを言うのだろう。 春は昼寝にうってつけの季節である。日本の猫で良かったとつくづく思うのは、うつらうつらとしかけた時に耳をくすぐる心地よい風が吹く時である。しかし猫でもないのにやたらと昼寝が好きな主人は今日も二日酔いでまだ起きてこない。大体昼寝というのは朝に一度起きなければできない代物である。従ってこの 分だと主人は今日も昼寝はできないであろう。
 なんだか吾輩が日記を書く時は主人がいつも二日酔いのようだが別段その日を選んで書いているわけではない。昨晩はなんでも高齢の大作家大西巨人氏の朗 読会があったとかでいわゆる文壇バーと呼ばれる新宿の店に出掛けて行き、言わずもがな朝帰りである。学生時代は余程の酒豪で鳴らしたようだが、今は酒量は半分に落ち、加えてすぐに襲ってくる頭痛に耐えながらしかし飲み続けるあたり余程の酒好きなのだろう。では三度の飯より酒が好きかというとそうではない。飯は飯でおいしそうによく喰う。要するに幸せな人なのだろう。
 さて前回主人の二日酔いの話を書いたのはタイに到着した日のことであった。二日目は日本との時差二時間という微妙な時差故に息子はタイ時間の朝五時から活動を始め、仕方なく起き出した細君とともにホテルの近くにあるセブン・イレブンに朝食の調達に行った。そこにはサブウエイ顔負けの野菜入れ放題のホットドッグがあり、巨大なきゅうりを見て息子は驚いていた。ヨーグルトも野菜ジュースも色々な種類があり、加えて安いので細君は色々買い込んだ。中でもお気に入りだったのは蓮の実ととうもろこしが入ったヨーグルトのようである。主人もすっかり胃の調子は治ったらしく、「うまいなあ、これうまいよ」を連発しながらホットドッグ、ヨーグルト、野菜ジュースをたいらげた。その日の予定は午後からブックフェアで講演することになっていたのだが、この分なら大丈夫そうだと一同安心した。しかも昼飯に細君の見つけてきた菜食主義専門のインド料理屋に行くなぞ吾輩には到底理解できない。主人は改めてインド料理の奥深さに感動したと言い、細君は久々においしいインド料理ーしかも南インドのものと強調していたーを食べることができたと至って満足気であった。やや不満そうなのは息子である。一番の大好物はカレーうどんでも、辛さが違うらしい。辛くない豆のカレーとお好み焼きに似たようなものを眉間に皺を寄せながら食していたらしい。
 いよいよ仕事である。ブックフェアの会場はホテルから近いのだが交通渋滞の為、うだる暑さの中四十分ほどかかって到着した。基金の担当者は前日に通訳の人と打ち合わせができなかったことを心配していたが、主人が一番気にしていたのはセッションをすることになっているミュージシャンの腕前であった。ご存じの方も多かろうが、主人は朗読の際に必ずフルートを吹く。作品とは何の関係もないのだが、いやむしろ逆効果ではないかと思ったりもするのだが、フランスのブックフェアなどでは’イパネマの娘’なる曲を吹きながら、陽気に自分の本を自ら売っていたが、買っていった客はさぞかし驚いたことだろう。内容は陰惨かつ難解で演奏から想像される明るい娯楽的イメージはどこにもないのだから。無論本人も判っていて、外国では「演奏は私の作品とは何の関係もあり ません」と断ってからやるようになった。今回は自分で演奏してから自作を朗読するというやや無理な手法を見直し、現地語に訳された部分の朗読に音楽をつける、というかたちにしたがこの方が聞いていて座りがいい。だが残念ながらこの日タイで出会ったギタリストはかなりレベルが低く、一応プロということらしかったが主人が得意とするところのジャズはあまりやらないらしかった。
 それでも全体としてパフォーマンスはうまくいったようで客の反応もあつく、新聞の取材も執拗に長かった。ブックフェア自体はかつての大坂万博のようにごった返していて、こんなにもタイの人は本が好きなのかと感動したがどうやらその逆らしい。一つには他にあまり娯楽がない為、家族でふらりと来れるお安いテーマパーク扱いのようだ。しかもこの時期だけは本が全て半額で売られているとなれば、買いだめのいい機会である。会場内の地べたに座り込んでいる家族が多かったのはそういうわけかと説明をきいて合点がいった。とにかく、あとは現地作家との夕食会に出席すればタイでの仕事は終了だそうで、次の日は一日観光とはなんとも気楽な仕事である。
  ようやく主人が起きてきた。どれ替わりに吾輩が寝るとしよう。
2005.5.06 更新 
 油断していたら早くも二週間が過ぎていた。タイ旅行の報告が終わらない内に奥泉家はもう次の旅行に出掛けてしまった。それみたことか、と主人は嬉しそ うである。ならば自分で書けばいいのだが恩も忘れて吾輩を責めるところなど人間が小さい。仕方なくボン(一人っ子の息子)が学校に行ったところで続きを書くとしよう。
 四月のバンコックは暑い。三十六度ある中名所巡りもないだろうと思ったが、主人一行は基金の人に案内を頼み、金ピカの寺に詣でた。行くところを選んだ のは無論細君である。「子供がいるからあまり沢山は回れないわね」と言いながらも、主要な寺を三つ、渡し船にも乗り、ナイト・クルージングを楽しめば充 分ではないかと吾輩は思う。七歳の息子は当然のことながら寺にはなんの関心もない。夕方に買ってもらえると言われたタイ語版の遊戯王カードを手にするま で、ひたすら歯を喰いしばって暑さに耐えているところが健気であった。
 行った寺はワット・プラケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃寺)、ワット・アルン(暁の寺)である。日本のひなびた寺に慣れ親しんでいると、 宝石がちりばめられた金ピカの寺はまるでテーマ・パークのように見えた。猫もうかうか昼寝していられないほどきらびやかである。ワット・ポーでは、巨大 な金ピカのオシャカさんが昼寝をしている裏でいくばくかの寄付をすると、108(108より多いときもある)の小石をくれる。その小石を108の鉢に入 れ、大願成就ということらしい。ボンはカード入手を心に秘め、汗をかきながら鉢に小石を入れていた。
 一方主人たちはタイ式マッサージとやらを受け至ってご満悦の様子だった。何でもタイ式マッサージの総本山とかで学校が敷地内にあるのだから驚く。そこ の卒業生は皆腕は碓かだそうで、「しかも30分で180バーツ(約530円)とは涙がでるような嬉しさだ」、とは主人の弁である。高い天井についた回転 式扇風機から送られる生温い風も心地よかったらしい。その間ボンは外のベンチで待っていた。カード入手までの秒読み段階に入っていたので文句も言わない。
 夕方、いよいよカード入手の為デパートに向かった。ところがここで思いもよらない悲劇が待ち受けていた。遊戯王カードはあったが、日本語版であった。 しかも値段が日本で1000円のものが1800バーツ(約5400円)である。これでは買っても意味がない、とは大人の論理である。ボンはカードの為に 一日暑さに耐え、辛いご飯にも耐えてきたのだ。だが主人も細君も約束したのはタイ語版だからと譲らない。日本で買えば同じお金で同じものが6つ買える、 と説いてみてもボンは泣き止まない。おそらく主人だけであったら根負けして買っていただろう。
 ナイト・クルーズに出る前、一度ホテルに戻った。無論ボンはまだ泣いている。細君はその日の午前中にオーダーメイドで頼んだ主人のシルクのシャツを受 け取りに町に出た。日本語版のカードがあまりにも高いので、海賊版が出回っているに違いないと考えた細君は屋台でタイ語版を探すつもりだったようだ。案 の定カードはあった。中学生位の子供がおもちゃを売っている屋台に各種カードが並んでいた。だがタイ語ではなく英語版であった。それでも日本語ではない からよかろうと判断し、子供相手に(約600円に)値切りホテルに戻った。エレベーターを降りるとボンの泣き叫ぶ声が廊下に響き渡っていた。だがさすが 子供である。細君からカードを受け取るとヒックとも言わず泣き止んだ。かくして豪華なナイト・クルーズは静かに過ごせたのであった。
 主人たちの止まったホテルも一流だったが、川沿いのやや不便なところにあるホテルはどれも南国の楽園を思わせる豪奢なつくりだった。世の有名な作家た ちがかつて滞在したというオリエンタル・ホテルやホテルシャングリ・ラ、主人を見ていると信じ難いが、アジアにはこうしたホテルがあちこちにあるそう だ。吾輩も一つそんな優雅な作家猫になってみたいと思った。そんなことを思っているうちにタイでの最後の夜は更けた。おしゃれなバーに寄ることができず 主人は残念そうだったが、1999年にできたという高架鉄道(BTSスカイトレイン)がドイツ製なので広くて快適だとはしゃいでいるあたり、ああしたバ ーに行くには十年早いと思った次第である。
 次回はいよいよインドネシアに到着する。
2005.5.15 更新 
 「吾輩日記」が人気があるらしい。そう告げた主人は何やら口惜しそうである。ははあ、と吾輩はピンときた。芸術家のジェラシーというやつだろう。吾輩がふふんと髭を震わせると、「僕が書いていると間違われると困る。君、ちゃんと名乗りをあげてくれたまえよ。」名乗れと言われても名前が無いのだから名乗りようがない。第一そんなに嫌なら自分で書けばいい。ばからしいので昼寝の体勢に入ろうとすると「まあせいぜいがんばって続けてくれたまえ」ときたもんだ。仕方ない、インドネシアの話だけでも終わらせておこう。
 とにかく驚いたのはジャカルタの交通渋滞である。猫でも歩いた方が早いのでは、と思うがいわゆる都市交通が車しかないらしく、どこへ行くにもひどく時間がかかる。おまけに車の両側をバイクが挟むように走っているので危険極まりない。時折ボコッ、という音がする。すわっぶつかったかと思うと、運転手同士しまりのない笑顔で手をあげておしまいである。
  そんな渋滞の中をぬって物売りがよくやって来る。タバコや水だけでなく、不思議な食べ物をガラス張りの屋台に入れていたり、竿に吊るして窓に近寄ってきたりする。新種が来る度細君は国際交流基金の人に「あれは何ですか。」「どんな味がしますか」と尋ねていた。買い食いが趣味といっていい細君は本来なら試してみたいのだろうが、主人とボン(7歳の一人息子)がお腹をこわしても困ると思ったのだろう。収集した情報をもとに味を想像しつつ、未練がましく物売りが通り過ぎるのを見ていた。因みに物売りが持っていたのは揚げ出し豆腐のような菓子(だそうだ)、揚げバナナ、ココナツ菓子、キュウリやメロン(おそらく水分補給の為で甘くないのだろう)干した果物などであった。
 何でもインドネシアはおやつにうるさいらしい。なにかイベントがあると(会議でも)必ず主催者側がおやつを用意する風習があるそうだ。主人が二日目に行ったインドネシア大学(日本の東京大学に相当するそうだ)でも、主人が講演していると、皆白い箱を開けてなにか食べていたそうだ。驚いた主人があとで聞いてみると、おやつだったそうだ。基金の人曰く、おやつの選択・予算組みが毎回大変だそうだ。何とものどかな話である。 インドネシアでの主人の予定は中々の強行軍だったので、タイでの過ちは繰り返すまいと、遠方の仕事には細君とボンは同行せず、二人はホテルのプールで優雅にバカンスを楽しんでいた。不可思議な鳥の鳴き声に包まれたプールはいかにも南国のリゾートといったかんじであった。だがボンは、生水をあれだけ飲まないようにと気をつけていたにも関わらず、足を滑らせプールの水をがぼがぼ飲んでいた。それでも腹をこわさなかったからよほど腸が丈夫なのかプールの水がよく消毒してあったかのどちらかだろう。
 夕方ジャカルタの街中のブックカフェで行われるという朗読・トークには細君らも同行した。行く途中、初代スカルノ大統領が建てたというモナス・独立記念塔(見た目にはあまり趣味の良くない)の説明を受けた。なんでもジャカルタの町並みが一望できる展望台があり、そこに行けばジャワ原人からのインドネシアの歴史が学べるという。だが人はあまりそこを訪れないらしい。碓かに塔のあたりに人影どころか猫も犬の尻尾もみえない。やはり暑いからだろう。公園を散歩するなら陰鬱なロンドンに限る。と突然、基金の現地スタッフが快活に笑い出し、バスを指差した。何だろうと思うと、バスが三台連なって走っている。どうやら一番右の車線はバス専用なのだが、15分間隔で運行するはずが三台一緒になってしまい、どう走っていいか困ってるらしい。そう言われてみると、微妙にお互い距離を取ろうとしている。現地スタッフは言う。「今の市長の政策で5時から7時までは一台の車に人が三人以上乗っていないと走ってはいけないことになっています。そこで登場したのが、車に乗るアルバイトです」何ともラクチンなアルバイトである。車に(しかも冷房付きで涼しければもうけもの)乗るだけでお金が稼げるとは猫でもできそうである。どこかの国のクイズになりだ。
 市長の政策のお蔭で比較的早めに会場についた。朗読の行われるブック・カフェの入っているショッピング・モールはまだ新しく、吾輩でもちと寒いほど冷房がきいていた。会場となるブック・カフェのオーナーは何でも大金持ちで、自分でもあまり売れない小説を書いているらしい。だが商売人としてはなかなか感じのいい人物であった。お土産を沢山くれたし吾輩にも愛想が良かった。本屋の奥に小さなステージがあり、主人の写真を大きくのばした立派な幕がかけられていて驚いた。無論ブック・カフェなのでカウンターがあり、飲み物、そしておやつ代わりのサンドイッチ、のり巻き?があった。吾輩もミルクを賜った。大体タイもインドネシアもミルクがすこぶるうまいのには驚いた。もしかすると、まずいのは日本だけなのではと疑念を持った。
 さていよいよステージである。これは主人が今までやったどのセッションよりもすごかった。そう、すごいミュージシャンが登場したのである。だが長くなったので、この辺でちと休むとしよう。う〜む、なかなかインドネシアの話が終わらない。仕方ない。猫の手にそう多くを求めてはいけないのである。
2005.5.21 更新 
 主人はこのところテニスばかりしている。細君が通っている、イトーヨーカドーの屋上にあるテニス・スクールに一緒に通い始めたのである。最初の頃は昼前に帰ってくると、真っ赤な顔をして「ダメだ〜」と言うと、部屋に入るなり寝てしまい、夕方まで起きてこなかった。最近はそうでもない。顔の赤みもさほどではなく、帰ってくると小1時間の昼寝でむくっと起き上がってきては「どうだ、腹がしまってきただろう」と自慢げである。主人の腹は見事に膨らんでいる。主人はビールはあまり飲まないので世にいうビール腹ではないらしいが、何が入っているのだろうかと思う程突きでている。あぐらをかいて囲碁番組を見ている姿などはだるまに見えなくもない。腹に比べて頭は小さいから、もしかすると知識を腹に溜め込んでいるのかもしれない。
 そもそもテニスは細君より先に主人が始めた。まだ子供が産まれる前の話だ。座り仕事が多く、散歩すらする気遣いのない主人の健康を思んばかって、細君が主人の誕生日にテニス・スクールを申し込んだのである。しばらくはいい調子で通っていたが、そのうちに奈良引っ越し事件が持ち上がり、テニスは忘れ去られていた。
 二、三年して細君がテニス・スクールに通い始めた。彼女はテニスと車の運転だけはしないと言い張っていたのに、どうしたことかその両方を同じ時期に始め、従ってテニスの腕前は細君の方が今や上である。スクールに通うにも主人は細君の運転する車に乗せてもらっている。だがクラスは違っても同じ時間帯に行くのを細君は嫌がっている。主人の琵琶腹が恥ずかしいのかと思えばそうではないらしい。主人のいるクラスは初心者の上級クラスである。なのにコーチより大きい声で、「うま〜い!もう一球!こっちはどうだ!」などと赤ら顔で、ラリーの相手に激をとばしているらしい。コーチもにやにやしながら放置しているそうだ。そこで細君は主人を車で送り、自分は別の日に行っている。
 今週は四回もテニスをしていた。そのうち一回は、細君がスクールで知り合ったご婦人方と公共のコートを借りてゲームをやるのに参加させてもらっていた。何やらテニスのおかげかここ数日は体の調子がすこぶるいいらしい。数カ月前まで「僕は鬱だ」と言っていたのが嘘のようである。  今主人は、例年の記念行事の一つである北海道の穂別町に招かれて留守である。大概穂別町へは家族で行っていたが、今年はタイ・インドネシアに旅行したし、と珍しく倹約精神があるかのように細君が言い、今年は一人で大嫌いな飛行機に乗りまだ雪が残る北海道へと旅立った。
 主人は穂別へは年に二、三回は行っている。小さい町なのになんやかんやとお祭りごとが好きらしい。そもそもの縁は、主人が1993年に貰った瞠目反文学賞なる怪しげな賞の副賞に「穂別町の野菜一生分・森林を所有する権利」がついていたところから始まる。今まで貰った賞の中で一番ありがたい賞だ、と常々奥泉家では話題になる。主人が生き続けている限り、年数回、穂別の野菜が届き、年に一回、森林を所有する権利保持者として植樹に行く事が義務づけられている。町ではこれを’マザーズ・フォレスト賞’と名付け、他にもあらゆる分野で活躍する人々五人(主人を含め)に権利を授与した。例えば映画監督のサイ・ヨウイチさんやマラソン選手の有森裕子さんらである。町ではその縁からサイ氏の指導のもと高齢者によるミュージカル映画を撮り、’田んぼdeミュージカル’は今や賞を撮りまくっているそうだ。映画に出演者たちは吉永小百合主演の映画にエキストラで出演し、今や業界では有名らしい。ハレの日を味わってしまった老人たちは次作’田んぼdeファッション・ショー’に取りかかっているそうだ。なにかと北海道の紙面を賑わしている町である。問題は来年の合併である。野菜はどうなってしまうのだろう、と奥泉家では不安がっているのである。
 そろそろ主人がもぎたてのアスパラガスを手に帰宅するとの連絡が入った。
2005.6.12 更新 
 「君、あれから書いてないそうだね」一週間の講演旅行から帰京した主人が、毛づくろいをしている吾輩を見るなり言った。そう言われてみると最後に書いたのは主人が北海道からアスパラを持って帰ってくる日だったからかれこれ二週間以上になる。「K大の学生諸氏も読んでるらしいが、やはり僕が書いていると勘違いしていた。君、そこのところははっきりさせてくれたまえよ」とお土産の赤福を鞄から取り出し、「君も食べたいだろうが、これはやめておきたまえ」と真面目な顔で言った。それを聞いたボン(七歳の一人息子)はにやりと笑った。以前、細君とボンがこの餅を競って食べているのを見て、夜中にこっそり食べてみたところ、とんでもない目にあった。そのことを思い出したのだろう。子供とは残酷なものである。
 なんだか日にちがたつうちにインドネシアのことは前世の話ではなかったかと思われてきた。思われてきたが、インドネシアの国際交流基金の担当であったS嬢から、「インドネシアのセッションの話、楽しみにしています」と主人に連絡が入ったそうだ。やはり彼女も主人が書いていると思っているらしい。吾輩としては、猫が書いている、と明記する以上にはっきりさせる手だてがない。大体主人が自分で書かないからいけないのである。だがまあ吾輩も一度引き受けた以上沽券に関わるので、インドネシアの話位はけじめをつけておこう。毛づくろいもそこそこに立ち上がった次第である。
 この二週間身辺が慌ただしかったのはボンが病気をし、続いて細君が寝込んだからである。ボンが先々週の木曜の夜突然吐いた。夕食時は、細君を手伝って作った好物の餃子を実によく食べ、かぼちゃの煮物も、みそ汁も残さず、'デザート'のパイナップルにいたっては三人分を一人でたいらげてしまった。ところが夜中にうなったかと思うと滝のように嘔吐が止まらなくなった。さすがの吾輩も、せわしなく廊下を走る細君の足音に寝ていられなくなり目が覚めた。当初はパイナップルの食べ過ぎだろうと思っていた細君も、明け方には、吐くものもなくなり、胃けいれんをおこしているボンを見て気の毒に思ったようだった。
 明朝日赤病院に連れていくとはやりの風邪だと診断され、一両日は何も食べさせるな、と言われた。これが至難のわざである。ボンはその日の昼にはもうお腹がすいたと言って泣いている。元々胃腸が丈夫なようで、三十九度の熱がある時でもボンはよく食べる。これは主人も細君も、良く言えば健啖家、簡単に言うと暴飲暴食の輩なのでどちらに似たとしてもさしてかわりはないであろう。強いて言えば細君は大の肉食家であり、主人は根菜好き、煮物好きであるということぐらいか。この二人が婚約している間、細君がヨーロッパに仕事で行っている時のファックスのやりとりときたら、ロマンティックの「ロ」の字もない。何をどこで食べ、どんな風な料理の仕方であった、といったことが、決してうまくはないイラストとともに説明されている。例えば細君が、ヘルシンキのレストランでムーミンの原作者であるトーベ・ヤンソン女史にナマズをご馳走になった、と書けば、その主人の返信は、「私はナマズを食したことはありませんが、山形の祖母はよく食べていたことを思い出します。醤油で煮て泥臭さを消していたと思いますが、フィンランドのナマズはどうでしたか」と書く。泥臭いなどと言われたナマズはいい迷惑だ。(英語でナマズのことを'catfish'というそうだが、そのせいかあの顔つきにはどこか懐かしさを感じる。)
 今回も、一年に一度行く高校講演会だが、主人からかかってくる電話の話題の九割は何を食べたか、という話だったようだ。今年は岐阜と富山で、行く前から「岐阜はきっと朴葉みそよ」と細君が目を光らせ嬉しそうに言っていたが、やはりそのようだったらしい。しかも肉、魚は全くでない精進料理だったそうで、「君ならきっと暴れていたよ」と主人は言いながらも、本人も小腹が空いた感がぬぐえなかったようである。続けて行った富山はさぞや主人好みの酒と魚の宝庫であったろうと推測する。なんでもそこでしか獲れない白いエビのカクテル仕立てなるものを食べたらしい。富山と言えばホタルイカの沖漬けが有名であるが、帰京して五日たっても尚主人は、「やはりクール便でホタルイカを家に送れば良かった。帰りに大阪にさえ寄らなければ。。。」と悔しげである。そうは言っても大阪には寄らないわけにはいかないのである。今の家が買えたのも、大阪のK大の教授であるという肩書きがあったからこそ銀行のローンが組めたのである。小説家とは社会では信用のない職業らしい。
 またインドネシアの話に行き着く前に眠気が甦ってきてしまった。梅雨時は仕方ないのである。毛づくろいも途中であった。インドネシアの話はまたにしよう。
2005.7.05 更新 
 「猫でも役に立つもんだなあ」と主人は二日続きのライヴのあと、吾輩を見ると妙に愛想良く言った。最近主人はライヴばかりやっているが、その際にファンの一人がこの吾輩日記を見て、ホタルイカの沖漬けを持ってきてくれたと言うのだ。「いやー、役に立ったよ。立った、立った。立ちついでに次のライヴの宣伝もしておいてくれたまえ」ときたもんだ。何でも純然たるジャズ・ライヴ・ハウスで、純然たる一流ジャズ・ミュージシャンと共に、ミュージシャンとして出演するらしい。痴がましい限りである。
 長編を書き上げた主人は中国の花火のようで、打ち上がったかと思うと'幸福'と書かれた赤い五重の塔がひらひらと舞い降りてくるような日々を送っている。細君はというと、主宰している劇団の十五周年記念公演(9月)に向けて準備に忙しい。夏休みは頼むから坊(二年生の一人息子)を連れて山形の田舎に行っててくれと細君が言えば、車がないとつまらないと主人が答え、食卓では毎度その話がむし返される。そう言えば最近食卓が騒がしい。原因は主人の始めたダイエットにある。あまりにポッコリと突き出た琵琶腹を少しでもひっこめようと、主人は昼の’麺ダイエット’と、’肉なしダイエット’を始めたらしい。だが、肉は食べないと言っておきながら、細君がいざ食べようと思って食卓に座ると肉片がもう消えているという騒ぎがここ一週間続いた。「これは幾つなら食べていい、と言っておいてくれなきゃ」「お肉は食べないんじゃなかったの!?」「だっておいしかったんだもん」。。。という悲しい応酬が続く。なんでも結婚したばかりの頃も、つまみになるようなものをまず食卓に出し、細君が調理を続けていると、いざ食べようと思う頃には一かけらも残っていなかったそうだ。「だって一人っ子なんだもん!僕は小さい時から、これ食べなさ〜い、っ言われて好きなだけ食べてきたんだ。」と主人は言う。だが吾輩にだってそんなことはないだろうと推測できる。何故なら主人の母は一人っ子を溺愛して育てた型の母親とはほど遠い。至ってクールで客観的である。主人の書く小説についても鋭く批評している。褒めることがあるとすれば音楽のこと位だろうか。というわけで、図ったわけでもないのにうまく音楽に話が戻って来た。これで終われる。
主人の幸せそうな顔を是非見に行ってやって下さい。吾輩は夜遅いので失礼しますが。

日時:7月28日木 「鳥類学者のファンタジアと朗読」
場所:吉祥寺 STRINGS 0422-28-5035(月曜定休)20:00~と22:00~の2ステ
出演:奥泉光 (Fl&朗読) 岩崎佳子(p) 吉野弘志(b)
税込:2600円
メールでの予約は前日迄。http://www.jazz-strings.com
2005.12.07 更新 
  「どうだい、もう降参だろ。まあ三月も続けば上等だよ。」
北風が急に冷たくなってきたこの頃、少しでも暖かいところをと徘徊し、ようやく寝る段になって、主人が例のニヤニヤ笑いで現れた。言われてふと暦を見上げれば、’十二月’とあり、あと一枚だけになった暦の白猫が風に揺れ、手招きしているようで妙に色っぽい。「この間のライブで、’猫さんはどうしちゃったんですか’と随分聞かれたよ。」
吾輩が主人に代わって日記を書き始めたのが春、それから夏が来て、夏が過ぎ、秋が来て秋も過ぎた。夏から書いていないのを、さもさぼっていたかのように言われるのがどうにも悔しい。夏は吾輩は主人と別行動であったし、秋になったらなんだかホームページが使えなくなったと、主人が激怒したあげく、しばらく放っておいたのだから仕方がない。だがまあ吾輩のファンの為にまた書き始めるとしよう。

 今夏奥泉家はいつものように八月初旬に紀州に行き、漁労にいそしんだ。メンバーは言わずと知れた熊野水産文芸部のコアメンバーで、今年は特別ゲストは来なかったようである。去年は総勢二十数人になったのにも関わらず、台風の襲来で部員は腕前を披露できず悔しい思いをした。今年は天気に恵まれ大漁で、坊(二年生の一人息子)もちびかさごを釣り、熊野水産文芸部ジュニア班としてデビューした。いつものようにW部長があわび、伊勢エビなどの豪華ものを穫り、たこ及び魚班班長I氏が見事なたこを突き、あじまで突いてみせた。主人は地上班班長で釜戸及び鍋用の蟹が担当だが、なんと今年はたこ突き初デビューを果たした。貝班班長の細君はひたすらトコブシを穫り続け、体の後ろ半分だけ日に焼けるというみっともないさまになって舞台の稽古場に復帰した。他には、最近定番メンバーになりつつある編集者のT氏がビギナーズ・ラックと部長から断定されたが大カサゴを突き、同じ編集者のM氏もたこを突いた。今年はたこのあたり年だったようだ。吾輩はたこはよう食べんので分からないが、イタリアンにしたり、醤油とみりんに漬けて焼いたりと実にうまかったそうだ。  ’ディープな海’と彼等が呼んでいる紀州から帰京後、坊と主人は細君の命令通り二人で山形へと向かった。吾輩は細君と東京で留守番である。大きい坊と小さい坊がいないと本当に仕事がはかどる、と細君が言うのを一日何回聞いたことか。だが夏の間ずっと田舎で過ごしてほしいという細君の希望もむなしく、二人は一週間ほどで帰ってきてしまい、八月の後半、細君が一番忙しい時期を迎える前に、山形から主人の母が助っ人として上京した。
 そうして九月に本番が終わり、十月、主人の母の希望により、一家は秋の奈良・京都旅行に出掛けた。紅葉には早かったが、やはり京都は何度訪ねてもいいらしく、それ以来坊にしきりに京大を目指せと夫婦して言っている。以前に京都を旅した際のことは、主人の夏に出た新刊「モーダルな事象」であますところなく使われているが、今回行ったところなども直に登場するのだろう。細君の友人が、「京都では是非湯豆腐を」、と勧めてくれたが、主人の母の「どんなにおいしくても豆腐は豆腐よね」の鶴の一声で、京都のフレンチ・レストランを細君がインターネットで検索し、クラシックの音楽家がよく行くという京都コンサート・ホールの近くのレストランを予約した。ランチに訪れたのだが、坊は魚も肉も両方食べると言いはり、大人用のコースを選んだ。「絶対残すなよ」という主人の言葉以上によく食べ、パンまでおかわりし、デザートまで全て平らげた。主人と細君に至っては書く迄もなかろう。この人たちは昼だというのに、’せっかくだから’を合い言葉に、食後酒(主人はグラッパ、細君はアルマニヤック)とチーズまで食べ、デザート、ダブル・エスプレッソを頼んだという。すっかりいい気分になって夕方、大原の山荘にたどり着き、山荘故いささか軽めの夕食だったそうだが、坊以外は満足して林間学校のような部屋で熟睡したようだ。

 十一月、主人は新しい仕事を珍しいことに二本立てで始め、首が回らないほど忙しくなり、ことわざと四字熟語にはまっている坊に「自業自得だね。身から出た錆かなぁ。」などと言われる日々を過ごした。それでもライブの予定を入れることは怠らず、先週、今週もライブは続いている。それなのに、’この頃はもう暇だろう’という何の根拠もない予測から十二月の三日、四日の土日に温泉に行きたいと主張した。「どこでもいいと思うんだけど、サファリ・パークに行きたくなぁい?」と主人が額を光らせて問えば、それでは殆ど行き先を限定している、と細君はブツブツ言いながらも、近場の群馬サファリ・パークに一家は一泊で出掛けた。有り難いことにペット持ち込み禁止だそうで、吾輩は家でのんびり過ごした。何でも、車のすぐ横をライオンやキリンが通ったり、サイにガンをつけられたりしたとかで、主人は大興奮したらしい。坊はホワイト・タイガーに餌をあげたりしてみたものの、大体の場合、車の外の動物を見ては自分の持っている動物カードで確認するという’学者タイプ’なる幼児の頃からの習性を発揮していたそうだ。細君はというと、彼女の育った南の国々では、道路にはいつも牛やら馬やら山羊やらが我が物顔で車の回りを徘徊していたし、少し田舎に行くと猿や時折象も見かけたそうでとくに感動的発言は聞かれなかった。ラマに餌をやり、撫でてもいいと言われた坊が躊躇しているのを見て、「大丈夫よ、ほら」と撫でながらも上着の袖をラマに噛まれ、なかなか離してもらえないでいると、坊はその間にどこぞへと走り去っていた、と笑っていた。
 こうして早くも師走である。主人は明日も吉祥寺のストリングスでライブだそうだが、これでは告知が間に合わないだろう。だが本は大丈夫であろう。集英社が出している文芸誌「すばる」2006年新年号に長編作家にしては珍しい短編を書いているそうだ。おまけと言ってはなんだが(吾輩はこっちの方が好みである)いとうせいこう氏との文芸漫談の模様も同誌に掲載されているそうだ。また、長編作家としての新連載も「新潮」で始まったようだ。いずれも買わないまでも本屋での立ち読みをお勧めしたい。
 今年はインフルエンザには気をつけたいものである。坊に、「吾輩は毛皮着てるから風邪ひかないよね」と言われたが、猫だってひく時はひくのである。諸氏も充分手洗い、うがいをお忘れなきよう。